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2008年4月

2008/04/30

回想録:母をしのんで

19日土曜日の午前中、ほぼ2ヶ月ぶりに母は住み慣れた自宅に戻りました。

病室の私物を整理しながら荷物をまとめていた時、「My Will」という母が生前に書きとめておいたノートが出てきました。

そこには、自分が亡くなった時の葬儀や連絡して欲しい人の一覧などが記されていました。闘病中、決して生きることをあきらめていなかった母ですが、万一の時に周りに迷惑がかからないよう、こんなものも書いておいたようです。母らしいと思いました。

実際、そういう準備もしていたらしいです。そのノートに書かれていた葬儀社に連絡をして葬儀の打ち合わせをしているとき、そのノートと葬儀社の資料が入っていた封筒を見て、「もしかしたら、お母様は弊社のエンディングプランのセミナーにお越しいただいていたのかも知れませんね。」と、言っていました。理由を聞くと、そのノートを含めた封筒をセミナー実施の際に参加者に配布していたのだそうです。

お通夜は21日、告別式は22日と決まり、できる限り母が残したノートに書いてある通りの葬儀を行うよう努めました。ただ、斎場は指定があったのですが、現地を下見したら随分と寂れた斎場で、たくさんの花に囲まれて旅立ちたいとあった母の思いにそぐわない気がしたので、最寄り駅近くの本立寺という斎場に変更しました。

少し小さな斎場でしたが、小ぎれいだったことと、入り口から斎場までの途中に少し咲き遅れた八重桜があって、今年は桜を見ることができなかった母のなぐさめになるかなって思ったからです。

母は、葬儀を生前親しくしてもらった友人・知人・家族が集まり、生前の故人との関わりに思いを馳せながら、故人とのお別れを認識する場と考えており、また、特定の宗教を持ってなかったことから、限られた親しい方を招いての、自由葬という形のお別れ会にして欲しいとノートにありました。そして、できればたくさんの花で送ってほしいと。

お通夜、告別式の2日間は、新緑がまぶしいくらいのとてもよい天気でした。闘病中、体調が天候に大きく左右されて、雨や寒い日は調子が悪そうだった母を思い出しましたが、他人のことばかり気遣う母でしたから、自分のことよりもお別れ会にご会葬いただく方々の足元が悪くならないよう、晴れの日にしたのかもしれないと思ったりもしました。

遺族が葬儀の写真なんて撮ってる余裕はなかったですし、事情により父ではなく私が喪主をつとめたこともありばたばたしてたのですが、葬儀社の関係者が撮っていてくれたものがあります。

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祭壇は思いのほかたくさんの花に飾られ、ご供花もいただいたおかげで、母が望んでいたように多くの花で送ることができました。花の種類も菊ではなく、母が好きだったフリージアや百合を中心に好きだった黄色の花や、一般には葬儀ではタブーと言われる薔薇の花も織り交ぜて飾ってもらいました。

それと、今年は贈ることができなかった、ピンクのカーネーションも添えて。。

2日間のお別れ会には、本当にたくさんの方々にご会葬いただきました。母の言葉どおり、葬儀のことはごく限られた方にしかお知らせせず、その方々から他の方にご連絡されることは特に制限はしませんでしたが、ご足労いただくのはごく近しい方々だけで結構ですとお話はしていたのですが。

実際、直接連絡を入れたのは親族を含めて10人程度です。忌引をとる関係上、弟も私も会社には連絡を入れましたが、その時も特に通達など出さないで結構ですと連絡したのですが、2日間で150人くらいの方々が母に会いに来てくれました。

 

小学校、高校の同級生、ご近所の方々とその中でも特に親友として闘病中の母をずっと支えてくださったOさんとUさん。Uさんは闘病中の母が抗がん剤の副作用から自宅で腸閉塞をおこして倒れているのを見つけ、救急車を呼んで病院までずっと付き添っていただいたこともありました。

モスクワ時代の知人で、入院中もよく一緒に散歩に付き合っていただいた30年来の友人のTさん。親子くらい年が離れている母を、「おかあさん、おかあさん」と呼んで親しくお付き合いしてくださり、以前、母と二人で渋谷に韓流映画を見に行ったこともあったという珈琲専門店のオーナーのKさん。ジャズダンスをやっていた頃の知人で、やはりがんで闘病生活を送られているNさん。

また、、私の大学時代によくうちに遊びに来ていた私のテニスサークルの友人も、突然の訃報に電話口で絶句し、忙しいさなかに連絡した翌日のお通夜に駆けつけてくれました。

中には、お通夜が終わったあとに訃報を聞き、明日はこれないからと夜の11時過ぎに駆けつけて御焼香だけされて帰られた方もいらっしゃいました。

その他、ホームヘルパー時代の同僚やかつて中国文化研究会と称して一緒に卓を囲んでいただいた友人の方々など、その交際範囲の広さとこれほどまでに皆さんから慕われていたことに驚かされました。

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そんな方々に最近の母の様子を知ってもらいたくて、斎場受付の横に最近の母の写真や、友人たちと旅行へ行ったときのアルバム、モスクワ時代の写真などを置いてみました。

といっても、あんまりしんみりしたことになっては母も喜ばないと思ったので、どの写真も、とても病気とは思えないような笑顔の写真ばかり並べて。

自由葬だったので、2日間とも、親しくしていただいた友人や知人、親族から弔辞と称して思い出話を語っていただき、葬儀の間はずっと母の好きだったいろんな曲、さだまさしの「風に立つライオン」やサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」、「千の風になって」などを流してもらいました。

告別式の最後には、祭壇に飾ってあったたくさんの花と、多くの人からもらった母への手紙を一緒に棺に納めました。葬儀の間中走り回って、でも黒い服の人ばかりで斎場に入るのをいやがっていた下のこぞーも、ちゃんと献花をしてくれ、おばあちゃんのために棺に花を入れるのを面白がって手伝ってくれました。

そして、最後は親族とごく近しい友人・知人の方々とで火葬に立会いました。このとき、本当に母はこの世を去ってしまったんだという現実感が出てきました。

土曜、日曜と、母の遺体は自宅に安置されていたので、もちろん生きてはいないのですが、体がそこにあるというだけでまだ母がこの世にはいないという現実感がなく、理解と感覚にギャップがありました。

でも、真っ白な遺骨だけになったのを見て、感覚が理解に近づいてきたのを感じました。箸渡しの時には、どこでもうるさく走り回っていた下のこじょーも何かを感じたらしく、じっと静かにして自分でも骨上げをし、他の人が箸渡しをしているのを黙って見ていました。

こじょーが言いました。

「おばあちゃん、火の中で熱かったんでしょ?」

「ううん。もう、おばあちゃん、熱くないんだよ。」

「おばあちゃん、どうして熱くないの?どうなったの?」

こじょーにわかってもらえるような説明が思いつきません。そのとき、あのノートに書いてあったことを思い出しました。自分が死んだ時、どうありたい、どう思ってもらいたいかを書いておくところがあったのですが、そこには、

「自分が死んだら、この歌の詩のように、風になって愛する人たちを見守っていたい。」

と書いてあり、続けて「千の風になって( Do not stand at my grave and weep)」の歌詞が書いてありました。なので、

「おばあちゃん、煙になって、それから風になったんだよ。でも、夜には星にもなるんだ。一番明るい星がおばあちゃん。朝、鳥がさえずっていたら、それもおばあちゃん。いろんなものになって、いぶきのことを見てるんだって。」

それから、こじょーはちゃんとそのことを覚えていて、「おばあちゃんは?」って聞くと「風になった。でもときどき、鳥やお魚にもなるの。夜は星になるしねっ。」って、答えるようになりました。

多くの人たちが、母を思い、慕い、悲しみ、そして最後の別れをしに来てくださいました。

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2008/04/29

回想録:お別れ

4月13日に母に会ったあと、しばらく病院に行くことができませんでした。

4月17日に自社の大きなプライベートイベントが予定されており、私はイベントの総責任者だったので、この週は非常に忙しく父と弟に看病をお願いしていました。

イベントの前日から会場となるホテルで深夜まで準備となり、いったん近くのホテルで仮眠を取って再び早朝にイベント会場に戻るという予定でしたし、当日は自分でも担当セッションがあって講演しなければならず、また、2つのアナリスト向けブリーフィングへの同席など、イベント責任者としての業務以外に掛け持ちがあったため、もしこの2日間に何かあったらその時はもう病院には戻れないと覚悟を決めて臨んだイベントでした。

実際、あとから弟に聞いたところでは、15日くらいから意識がほとんどなくなって呼びかけにも反応しなくなり、16日、17日は血圧も低下したり発熱したりで危ない状況になったことも何度かあったそうです。そのたびに父は私に連絡をしてくれていたようです。

しかし、結果的にはイベントも無事終了し、チームのメンバーと最後までイベント会場で片づけをしてその日は帰路につきました。翌日も会社に行き、終業時刻を少し過ぎた頃、やはり父から携帯に連絡があり、なるべく早く病院に来るようメッセージが残っていました。

ですがやることも残っていたため夜7時過ぎまで仕事を続けていたのですが、なぜかわかりませんが仕事を止めて病院に行こうという気持ちが強くなり、中途半端に仕事を放り出して病院に向かいました。

病院に着いたのは夜9時頃だったでしょうか。その時に会った母は、もう日曜日に会った時とはまったく違っていて、意識もなく呼びかけにも応じず、ほとんど瞬きもできないような状態でした。

それでも、熱があったのが少し下がって状態はちょっと前より落ち着いているとのことでした。しかし、それから2時間ほどして再び発熱し、うめくように呼吸をするようになりました。声を出して息をはかないと呼吸ができないようなのです。それぐらい呼吸をするのにも懸命な状態のようでした。

私の到着と入れ替えでシャワーと着替えに自宅に戻った弟に連絡し、早めに病院に戻るよう伝えたのが11時過ぎだったでしょうか。弟が戻ってきたので、彼の車を借りて今度は私が自宅に戻る予定でしたが、戻ってはいけないような気がして残ることにしました。

時計の針はもう翌日になっていました。少しずつ呼吸が弱くなり、呼吸の間隔が長くなっているのがわかります。自分の中で、もしかしたらその時が来てしまうかも知れないと覚悟を決めようとするのですが、一方でもう一度だけでも意識を取り戻して欲しいと願っている自分がいます。意識レベルが上がると、痛みも感じてしまいます。でも、もし本当にその時が来てしまうのであれば、わずか数秒でもいいから意識を取り戻してくれないかと願いました。

母さんの子供に生まれて幸せだった、と。
おれの家族に注いでくれたこれまでの愛情に感謝してる、と。

そういう思いのすべてを、たったひとことに込めて、

「ありがとう。」

と伝えたかったのです。

でも、その願いは叶わず、少しずつ、ゆっくりと呼吸が小さくなり、苦しそうな表情もなく静かに生きることを終えました。

4月19日の土曜日未明。

母との、別れのときでした。

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回想録:生き様

非常に厳しい病状で、統計的にはほとんど希望が持てない状態でしたが、母は努めて前向きに治療に臨んでいました。

病巣を特定し治療方針が確定するまで時間がかかっていたときには、がんに対して何もせず放置しているのと同じ状態だったので相当にストレスだったと思いますが、とりあえず治療方針が確定し、抗がん剤投与による治療が始まったことで前向きな気持ちになれたというのはあったと思います。

しかし、やはり抗がん剤による治療は副作用を伴う辛いもので、加えて最初は痛みに対するコントロールも難しく、はたから見ていても非常に辛そうでいたたまれない気持ちでした。

特に、腸閉塞を頻繁に起こしていた頃は、いったん腸閉塞の症状がでると食べ物は口にできないし、痛みはさらにひどくなり、入院していてもその辛さが解消されるわけではないので、絶食してひたすら症状が改善するのを待つのみということが何度もありました。

それでも母は決して泣き言は言わず、良くなるためには仕方のないことと自分の身に降りかかる全てを受け止めて前向きに取り組んでいただけではなく、そんな状態にありながらも周囲に対する気遣いもしていました。

これはもう性分なんだと思いますが、自分の方が大変な状況なのだから、そんなことは気にせず治療に専念してくれと何度も言った記憶がありますが、どうしても自分中心に振舞うことはできなかったようです。

2006年9月、うちの長男が通う小学校の運動会に行ったときのことは今も忘れません。朝から調子が良くなかったらしいのですが、それをガマンして長男の運動会に行き、休憩に戻ってきた孫と笑顔で写真におさまりました。そして、お昼になってお弁当を広げて父と私の奥さん、奥さんの両親とで食事を始めてしばらくしたとき、母が突然嘔吐しだして顔面も蒼白になってしまいました。その時、母はそんな状態なのに

「せっかくのお昼なのに、台無しにごめんね。。」

とみんなに謝っていました。

そんな母をみて、「調子が悪いなら悪いって、遠慮なく言っていいんだよ。言わなきゃだめだよ。」って言いながらも、なんで様子がおかしいことに気づかなかったのか、母の性格からしたら、こちらが気づいてやらないといけないのにと、実の息子なのに全くわからなかったとは自分が情けなくなったのを覚えています。

実際には不安もあったと思うし、治らないのではないかという気持ちもどこかにあったとは思うのです。他人を気遣っているような余裕があったわけではなかったはずです。でも、同じようにがんと闘っている友人や親戚からは、母からはとても自然な暖かい言葉をもらって励みになったとあとから聞きました。
弱気なことを言っても、それをいさめたり強く励ますというのではなく、「病気であることと今おかれた状況を、自分はこんな風に受け止めて、それと一生付き合っていくつもりで毎日を大切に過ごしている。」というように。自分はこうしようと思っているという話を聞いて、それがとても励みになったと。

ほんの半年くらいの間でしたが、一時は状態が改善し、腫瘍マーカーの数値も一般人並にまで減少したことがありました。そのときには、友人知人と映画を見に行ったりちょっとした旅行に行ったりすることができ、こちらも病気であることを忘れるくらい元気に見えるほどでした。
きっと、この時期の母はこれまでの人生の中で最も濃密で充実した気持ちで毎日を送っていたのではないかと思います。不安は常につきまといつつも、普通の人のような生活を送ることができ、それがどんなに貴重なことなのか実感していたのだと思うのです。

しかし、そんな状態も長くは続かず、昨年の10~11月くらいから再び腫瘍マーカーの数値が増加傾向となり、これまで使用していた抗がん剤も効かなくなってきました。調子の良かった時期には、少しでもその状態を維持し、さらには根治につながればと放射線治療やハイパーサーミア(温熱療法)、免疫賦活効果があるといわれる高額なアラビノキシラン含有製品を購入し摂取させたりもしてきましたが、それらの効果もなくなってしまいました。

今年に入ってから徐々に入院している期間が長くなり、2月になってからは週に一度程度外出許可をもらって家に戻るくらいの状態になってしまいました。そんな時、さらに追い討ちをかけるように、1ヶ月以上の長期入院となってしまうため、違う病院に転院してもらいたいとの話があり、このことが母には相当なストレスとなっていました。

それでも転院するならホスピスなどではなく、自宅から遠くても、孫や家族と会える機会が減ったとしても、今と同じかそれ以上の治療が受けられる病院はないか探して欲しいと言っていたように、とにかく治療の可能性を求めていました。それはつまり、生きることを決してあきらめなかったということなのです。

しかし、2月から入院がちで、3月14日にはこれまでにない痛みに襲われ、非常に苦しんだあとはほとんどモノを口にできなくなり点滴だけで過ごしていたため、体力は確実に衰え、3月21日にはベッドから立ち上がろうとしてうまく立てず、転倒してケガを負うという事故もありました。モノが食べられなくなってから抗がん剤の投与も中止したため、症状も進行してしまいました。

そして3月24日に、ベッドで意識を失くして倒れているところを看護士が見つけたのです。その時にははっきりわかりませんでしたが、のちに敗血症にかかったことがわかりました。免疫力が落ちてきたところに何らかの原因で細菌が入ってしまったようで、危険な状態だと言われました。上の血圧が60台まで落ち込み、時々脈が取れなくなるくらい低く弱くなったりすしたため、点滴で昇圧剤と抗生物質を投与して様子を見るしかないという状態。主治医からは、「場合によっては最悪の事態も覚悟してください。」と言われ、その日から弟と私、父の3人で病院に泊まりこみの看病をすることになりました。病室から会社にでかけ病室に帰り、弟の車を借りて家に戻って翌日の支度をしてまた病院に。父と弟の3人で交代で休憩を取りながら様子を見守りました。

時々意識は戻りますが意識レベルは低く、といってはっきりしてしまうと痛みに対しても敏感になってしまいうというジレンマで、でもとにかく痛みを取り除いてあげたいということから、意識レベルは低くなっても痛み止めを使って苦痛を和らげることを選択しました。

だんだんと痛み止めの効果がある時間が短くなり、投与する量も増やさざるを得なくなってきました。寝たきりなので同じ姿勢だとすぐにどこかが痛くなるため、看護士にお願いして2時間おきと向きを変えてもらうのですが、一回で楽な姿勢が決まらないため、そばにいる父や弟、私が、足が痛いのか腰が痛いのか、足を曲げたいのか、体をもっと斜めにしたいのかなど、YesかNoで答えられるような質問を何度も繰り返して確認し、少しずつ姿勢を変えたりを繰り返し、時には痛いところをさすったり、直接痛い箇所とベッドが当たらないように自分の腕を母の体の下に差し込んで手のひらで痛いところを覆って、痛み止めが効き始めるのを待っていたりしました。

こんな風に書くと付き添っているこちらも結構大変なように見えますが、でもそばにいながら、こんなことぐらいしかできないのです。ほとんどの時間は何もしてあげることができず、ただそばにいるだけ。むくんだ足や手をマッサージしたり、時折話しかけてあげるくらいです。悲しいことに、我々は無力でした。

最後の数週間は本当に辛かったと思います。意識レベルは低いとはいえ、周りの話している内容は理解できるし、意思表示もできるのに体は言うことを聞かず、すべてのことは他人を頼らないと何もできないという状況は、母にとっては受け入れがたいことだったのではないかと思います。

それでも孫であるうちのこぞーどもを連れて行ったとき、下のこじょーの声がすると目をぱっと開けてこぞーどもの話を聞き、時おり笑顔も見せ、帰るときには手を振ってベッドの上からこぞーどもを見送っていました。今思うと、孫たちには辛そうな自分を見せないよう、相当に頑張っていたのではないかと。

今年は花見に連れて行くことができず、満開の桜を見せることができませんでした。でも、おばあちゃんに桜を見せてあげようと、上のこぞーが悪いことと知りながらも桜の木の枝の先を手折って、病室に持ってきて母に見せてあげたときには本当に嬉しそうでした。

あれだけ辛い思いをすれば、楽になりたいと弱音を吐いたとしても、誰も母を責めることはできないというような闘病生活でしたが、最後までそんなことは口にせず、最期のその時がくるまで生きることに一生懸命だったと思います。

4月11日の金曜日は、下のこぞーの入園式でした。入園式には行きたいと言っていたのはわずか3週間前のことで、実際にあの時のままなら行けたはずでした。園服姿でいるのがイヤでどこかへ走り出し、入園式の後の全体写真にも危うく写らないで終わるところだった下のこじょーですが、「おばあちゃんに見せに行くからガマンして着てて。」と言い聞かせたら、めずらしく頑張ってくれました。おかげで、母が見たがっていた下のこじょーの園服姿を見せることができ、寝たままでしたがこじょーと一緒に写真を撮ってあげることができました。

そして、このとき撮ったこじょーとの写真が、母を写した最期のものとなりました。

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2008/04/27

回想録:闘病のはじまり

調べれば調べるほど希望が見えない病状でした。

ですが、母は医者に症状を告げられたあとも大きく落胆した様子は見せず、すぐにこの病気を治すためには何をすれば良いのか、何ができるのかを考え始め、医者に色々と質問したり弟や私にもインターネットで調べたりとか協力して欲しいと言いました。

本当は不安も大きかったはずなのですが、努めて前向きに考えて、必ず治ると信じて自分の病気に向かい合うと決めていたように思います。

当初は膵臓がんではなく子宮がん(または併発)の可能性もあったために、治療方針がなかなか決まらず、いたずらに時間が過ぎていくようで当事者でない私や弟でさえ焦りがありましたから、本人は相当にストレスだったはず。

2月に病気がわかってから、その後セカンドオピニオンを取るために、4月になってから築地にある国立がんセンター中央病院にも何度か通いました。予約ができないため、朝8時前に連れて行き、整理券を取るために受付が開く前から並んで待ったりしたこともありました。

ようやく治療を開始できる目処がついたのは5月になってからだったでしょうか。。
抗がん剤治療しか当面はできることがなく、副作用などの不安もありながらも、それでも完治を目指しての一歩を前に踏み出せることで、希望を持てるような、希望を持ちたいというような思いでした。

この写真は、2006年3月27日の天気の良い日、母と二人で実家近くの川沿いの道を散歩したときに撮ったものです。

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満開の桜を背に写真を撮ったあと、二人とも来年もこうして桜を見に来られるのだろうかという思いを持っていたと思いますが、お互いにそのことは口にせずにいました。

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なんとか来年も再来年もこうして桜を見ることができるように、治療の効果が出てくれることを祈っていた春の日でした。

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回想録:見えない希望

母が膵臓がんだとわかったのは、私がいまの会社に転職してすぐの2006年1月ことでした。

2~3ヶ月前から背中や腰が痛いと時々もらしていたのですが、当時はホームヘルパーをしており、体力的にもきつい仕事だったので、働きすぎで体が疲れているんじゃないかと私も弟も思っていたのです。

いま思えば、最初に痛いと訴え始めたときに健康診断をすすめていればというのが後悔の始まりかも知れません。

膵臓の尾部に病巣があって既に腹膜播種も広がっており、詳細な検査をした結果、医者(後の主治医)が告げたのは「膵臓がんで現在ステージIVの状態です。」とのことでした。

膵臓がんは早期発見が難しい病気らしく、発見されたときには既にステージIVという状態は珍しくなく、この状態だと外科的処置が難しいため(母の場合は腹膜播種が広がっていたため手術ができないとのことでした)著しく治療成績が良くないということもインターネットを通して調べた結果わかりました。

膵臓がんが難治がんである原因は、膵臓がんには特にこれといった特別な自覚症状がなく、膵臓がんと診断された時には大半がかなり進行し ており、7割から8割の方は外科手術の適応にならない最も進んだ状態のステージIVbでみつかることが多いこと、ま た、たとえ切除可能であっても早期に再発を生じることが多く外科的処置が可能であっても5年生存率が20%前後であることからのようです。

日本膵臓病学会の膵癌登録過去20年間 の膵がんの症例のステージ別治療成績(5年生存率)を調べたときには、ステージIVa: 11%、ステージIVb:3%となっていました。そして、この5年生存率の低さを裏付けるように、半年から1年もたない患者さんも多いということもわかりました。

ここまで調べたところで全身の力が抜けていくのを感じたのを今でも覚えています。どうして母がこんなことになったのか、なぜこんなに希望がない状態なのか、考えても考えても納得がいかない。これまでの人生で、家族にも尽くしてきて父親が省みない家庭を支えてきただけでなく、人生の後半になって辛い思いをして、それでも一人で生きていくためにホームヘルパーの資格を取って自分で生活する術も身につけて頑張ってきたのに、こんな仕打ちがあるのかと、どこにもぶつけようがない憤りがいつまでも消えませんでした。

と、同時に、膵臓がんの末期であることを知った母が、どんな思いでいるのかを想像したらいたたまれなくて、もしこれから治療しながら生きることに絶望していたら、どう励ましていいのかをひたすら考えていました。

私が大学の頃、母の姉がやはり膵臓がんでこの世を去りました。非常に辛い思いをしながら治療をし、それでも最後の方では痛みに耐えかねて苦しんでこの世を去った叔母のことが思い出されました。母もその時のことを忘れているはずがありません。仲の良い姉妹でしたから、ずっと叔母のことを気にかけてましたし、よくお見舞いにも行って良い治療法がないか調べたりもしていましたから、膵臓がんの専門的知識はなくとも、自分が置かれた状況については、少なくとも感覚的には理解していたと思います。

私が小学校1年生の頃、母と弟、私の3人で当時のソ連の首都モスクワに向けて旅立つ羽田空港の出発ロビーで母に言った言葉が浮かび、今こそその約束を守らなくてはならない時だと思ったのですが、いったいどうしたらよいのか、真っ暗な先の見えない道を探して途方に暮れていました。

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2008/04/26

慟哭のとき

母が他界しました。

4月19日未明、ゆっくりと息を引き取りました。
日が経つのは早いもので、もう初七日も過ぎました。

葬儀とか役所での手続き、ご会葬いただいた方々へのお礼やご香料をいただいた方々への返礼品のリスト化など色々とやる事があり、それに加えてちょうど会社が会計年度末だったこともあって、忌引で休みをいただいてはいましたが時々出社して事務処理をしたりしているうちに、もう母が亡くなって一週間が過ぎました。

何かやることがあって忙しくしていると色んなこと考えずにすみます。その合間にときどき母に向かって焼香し、手を合わせて心の中で語りかけたりもできます。

でも、一人にになって考える時間があると、ね。
たとえば、夜中に一人で車を運転してたりすると、どうしても悲しみと後悔の気持ちを抑えることができないです。時間は過ぎても、心の中で人生の歩みが止まってしまったように感じた一週間でした。

いま、人生ではじめて、慟哭のときをむかえているのだと感じています。

そして、後悔という言葉の本当の意味を、思い知ることになりました。

泣いても叫んでも、悲しんでも嘆いても、もう母は戻ってきません。

応えられなかった母からの期待、果たさずにいた母との数々の約束が、浮かんでは消えていきます。

きっと、この後悔はわたしが生きている限り、ずっと消えないのだと思います。

でも、いつまでも悲しんでいるわけにはいかないですからね。

もう少し、時間はかかるかも知れないけど、母がわたしや家族にくれた多くのものと、ずっと消えることのない後悔と、この2年3ヶ月の間にわたしに見せてくれた母の生き様を、ぜんぶ心にしまって、再びこの先の自分の人生を歩み始めないと。

そう考えながら、この慟哭のときをすごしています。

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2008/04/20

「悲しい」ということ

かなしいこと。

いままで、それなりに経験してきたつもりです。

でも、世の中にこんなにも悲しいことがあるとは、いままで生きてきて初めて知りました。

これが、「悲しい」ということ、なんでしょうか。

本当の悲しみには、底がないのでしょうか。

覚悟は、できていたつもりだったんですが・・・

そんな覚悟なんて、現実の前には、なんの心構えにも、なってなかった。

悲しいです。

悲しくて、悲しくて、やりきれない。。。

本当に悲しいというのは、こういうことなんだと、いま初めて感じています。

でも、明日、明後日、ちゃんと送ってあげないといけないですから。

心配させちゃ、いけないですからね。

あと少し、気を張って、送ってあげるつもりです。

いままで、ここまで、いっしょにすごしてくれた、感謝の気持ちを込めて。

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2008/04/19

消えていくようで。。。

少しずつ、そのときが、近づいてきているのかな。

そう、感じられるくらいの、小さな息吹きなのです。

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