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2008/04/29

回想録:生き様

非常に厳しい病状で、統計的にはほとんど希望が持てない状態でしたが、母は努めて前向きに治療に臨んでいました。

病巣を特定し治療方針が確定するまで時間がかかっていたときには、がんに対して何もせず放置しているのと同じ状態だったので相当にストレスだったと思いますが、とりあえず治療方針が確定し、抗がん剤投与による治療が始まったことで前向きな気持ちになれたというのはあったと思います。

しかし、やはり抗がん剤による治療は副作用を伴う辛いもので、加えて最初は痛みに対するコントロールも難しく、はたから見ていても非常に辛そうでいたたまれない気持ちでした。

特に、腸閉塞を頻繁に起こしていた頃は、いったん腸閉塞の症状がでると食べ物は口にできないし、痛みはさらにひどくなり、入院していてもその辛さが解消されるわけではないので、絶食してひたすら症状が改善するのを待つのみということが何度もありました。

それでも母は決して泣き言は言わず、良くなるためには仕方のないことと自分の身に降りかかる全てを受け止めて前向きに取り組んでいただけではなく、そんな状態にありながらも周囲に対する気遣いもしていました。

これはもう性分なんだと思いますが、自分の方が大変な状況なのだから、そんなことは気にせず治療に専念してくれと何度も言った記憶がありますが、どうしても自分中心に振舞うことはできなかったようです。

2006年9月、うちの長男が通う小学校の運動会に行ったときのことは今も忘れません。朝から調子が良くなかったらしいのですが、それをガマンして長男の運動会に行き、休憩に戻ってきた孫と笑顔で写真におさまりました。そして、お昼になってお弁当を広げて父と私の奥さん、奥さんの両親とで食事を始めてしばらくしたとき、母が突然嘔吐しだして顔面も蒼白になってしまいました。その時、母はそんな状態なのに

「せっかくのお昼なのに、台無しにごめんね。。」

とみんなに謝っていました。

そんな母をみて、「調子が悪いなら悪いって、遠慮なく言っていいんだよ。言わなきゃだめだよ。」って言いながらも、なんで様子がおかしいことに気づかなかったのか、母の性格からしたら、こちらが気づいてやらないといけないのにと、実の息子なのに全くわからなかったとは自分が情けなくなったのを覚えています。

実際には不安もあったと思うし、治らないのではないかという気持ちもどこかにあったとは思うのです。他人を気遣っているような余裕があったわけではなかったはずです。でも、同じようにがんと闘っている友人や親戚からは、母からはとても自然な暖かい言葉をもらって励みになったとあとから聞きました。
弱気なことを言っても、それをいさめたり強く励ますというのではなく、「病気であることと今おかれた状況を、自分はこんな風に受け止めて、それと一生付き合っていくつもりで毎日を大切に過ごしている。」というように。自分はこうしようと思っているという話を聞いて、それがとても励みになったと。

ほんの半年くらいの間でしたが、一時は状態が改善し、腫瘍マーカーの数値も一般人並にまで減少したことがありました。そのときには、友人知人と映画を見に行ったりちょっとした旅行に行ったりすることができ、こちらも病気であることを忘れるくらい元気に見えるほどでした。
きっと、この時期の母はこれまでの人生の中で最も濃密で充実した気持ちで毎日を送っていたのではないかと思います。不安は常につきまといつつも、普通の人のような生活を送ることができ、それがどんなに貴重なことなのか実感していたのだと思うのです。

しかし、そんな状態も長くは続かず、昨年の10~11月くらいから再び腫瘍マーカーの数値が増加傾向となり、これまで使用していた抗がん剤も効かなくなってきました。調子の良かった時期には、少しでもその状態を維持し、さらには根治につながればと放射線治療やハイパーサーミア(温熱療法)、免疫賦活効果があるといわれる高額なアラビノキシラン含有製品を購入し摂取させたりもしてきましたが、それらの効果もなくなってしまいました。

今年に入ってから徐々に入院している期間が長くなり、2月になってからは週に一度程度外出許可をもらって家に戻るくらいの状態になってしまいました。そんな時、さらに追い討ちをかけるように、1ヶ月以上の長期入院となってしまうため、違う病院に転院してもらいたいとの話があり、このことが母には相当なストレスとなっていました。

それでも転院するならホスピスなどではなく、自宅から遠くても、孫や家族と会える機会が減ったとしても、今と同じかそれ以上の治療が受けられる病院はないか探して欲しいと言っていたように、とにかく治療の可能性を求めていました。それはつまり、生きることを決してあきらめなかったということなのです。

しかし、2月から入院がちで、3月14日にはこれまでにない痛みに襲われ、非常に苦しんだあとはほとんどモノを口にできなくなり点滴だけで過ごしていたため、体力は確実に衰え、3月21日にはベッドから立ち上がろうとしてうまく立てず、転倒してケガを負うという事故もありました。モノが食べられなくなってから抗がん剤の投与も中止したため、症状も進行してしまいました。

そして3月24日に、ベッドで意識を失くして倒れているところを看護士が見つけたのです。その時にははっきりわかりませんでしたが、のちに敗血症にかかったことがわかりました。免疫力が落ちてきたところに何らかの原因で細菌が入ってしまったようで、危険な状態だと言われました。上の血圧が60台まで落ち込み、時々脈が取れなくなるくらい低く弱くなったりすしたため、点滴で昇圧剤と抗生物質を投与して様子を見るしかないという状態。主治医からは、「場合によっては最悪の事態も覚悟してください。」と言われ、その日から弟と私、父の3人で病院に泊まりこみの看病をすることになりました。病室から会社にでかけ病室に帰り、弟の車を借りて家に戻って翌日の支度をしてまた病院に。父と弟の3人で交代で休憩を取りながら様子を見守りました。

時々意識は戻りますが意識レベルは低く、といってはっきりしてしまうと痛みに対しても敏感になってしまいうというジレンマで、でもとにかく痛みを取り除いてあげたいということから、意識レベルは低くなっても痛み止めを使って苦痛を和らげることを選択しました。

だんだんと痛み止めの効果がある時間が短くなり、投与する量も増やさざるを得なくなってきました。寝たきりなので同じ姿勢だとすぐにどこかが痛くなるため、看護士にお願いして2時間おきと向きを変えてもらうのですが、一回で楽な姿勢が決まらないため、そばにいる父や弟、私が、足が痛いのか腰が痛いのか、足を曲げたいのか、体をもっと斜めにしたいのかなど、YesかNoで答えられるような質問を何度も繰り返して確認し、少しずつ姿勢を変えたりを繰り返し、時には痛いところをさすったり、直接痛い箇所とベッドが当たらないように自分の腕を母の体の下に差し込んで手のひらで痛いところを覆って、痛み止めが効き始めるのを待っていたりしました。

こんな風に書くと付き添っているこちらも結構大変なように見えますが、でもそばにいながら、こんなことぐらいしかできないのです。ほとんどの時間は何もしてあげることができず、ただそばにいるだけ。むくんだ足や手をマッサージしたり、時折話しかけてあげるくらいです。悲しいことに、我々は無力でした。

最後の数週間は本当に辛かったと思います。意識レベルは低いとはいえ、周りの話している内容は理解できるし、意思表示もできるのに体は言うことを聞かず、すべてのことは他人を頼らないと何もできないという状況は、母にとっては受け入れがたいことだったのではないかと思います。

それでも孫であるうちのこぞーどもを連れて行ったとき、下のこじょーの声がすると目をぱっと開けてこぞーどもの話を聞き、時おり笑顔も見せ、帰るときには手を振ってベッドの上からこぞーどもを見送っていました。今思うと、孫たちには辛そうな自分を見せないよう、相当に頑張っていたのではないかと。

今年は花見に連れて行くことができず、満開の桜を見せることができませんでした。でも、おばあちゃんに桜を見せてあげようと、上のこぞーが悪いことと知りながらも桜の木の枝の先を手折って、病室に持ってきて母に見せてあげたときには本当に嬉しそうでした。

あれだけ辛い思いをすれば、楽になりたいと弱音を吐いたとしても、誰も母を責めることはできないというような闘病生活でしたが、最後までそんなことは口にせず、最期のその時がくるまで生きることに一生懸命だったと思います。

4月11日の金曜日は、下のこぞーの入園式でした。入園式には行きたいと言っていたのはわずか3週間前のことで、実際にあの時のままなら行けたはずでした。園服姿でいるのがイヤでどこかへ走り出し、入園式の後の全体写真にも危うく写らないで終わるところだった下のこじょーですが、「おばあちゃんに見せに行くからガマンして着てて。」と言い聞かせたら、めずらしく頑張ってくれました。おかげで、母が見たがっていた下のこじょーの園服姿を見せることができ、寝たままでしたがこじょーと一緒に写真を撮ってあげることができました。

そして、このとき撮ったこじょーとの写真が、母を写した最期のものとなりました。

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コメント

大変だったですね。

私も7年前に母を癌で亡くしました。うちの場合は、自宅で、しかも、私の見ている前で息を静かにひきとりました。あげた手がすー、、と落ちていったのです。その数分前、「楽しかったわ」と目を開けて言ってくれた時には、まさか、すぐ逝くなんて、思いもしなかったです。正月明け早々。1/5早朝のことでした。。

今、思えば、あーしてあげればよかった、こうすればよかった、等々思えてきますが、たぶん、何をしてもそう思うと思います。

投稿: shita | 2008/04/29 16:39

> shita-san
> 今、思えば、あーしてあげればよかった、こうすればよかった、等々思えてきますが、たぶん、何をしてもそう思うと思います。

そうですね。。
そして、そういう悔いはこの先もずっと抱えたまま生きていくことになると思うので、今後の人生に活かしたいと、本当に思っています。

投稿: あるじ | 2008/05/17 08:34

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