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2008/04/30

回想録:母をしのんで

19日土曜日の午前中、ほぼ2ヶ月ぶりに母は住み慣れた自宅に戻りました。

病室の私物を整理しながら荷物をまとめていた時、「My Will」という母が生前に書きとめておいたノートが出てきました。

そこには、自分が亡くなった時の葬儀や連絡して欲しい人の一覧などが記されていました。闘病中、決して生きることをあきらめていなかった母ですが、万一の時に周りに迷惑がかからないよう、こんなものも書いておいたようです。母らしいと思いました。

実際、そういう準備もしていたらしいです。そのノートに書かれていた葬儀社に連絡をして葬儀の打ち合わせをしているとき、そのノートと葬儀社の資料が入っていた封筒を見て、「もしかしたら、お母様は弊社のエンディングプランのセミナーにお越しいただいていたのかも知れませんね。」と、言っていました。理由を聞くと、そのノートを含めた封筒をセミナー実施の際に参加者に配布していたのだそうです。

お通夜は21日、告別式は22日と決まり、できる限り母が残したノートに書いてある通りの葬儀を行うよう努めました。ただ、斎場は指定があったのですが、現地を下見したら随分と寂れた斎場で、たくさんの花に囲まれて旅立ちたいとあった母の思いにそぐわない気がしたので、最寄り駅近くの本立寺という斎場に変更しました。

少し小さな斎場でしたが、小ぎれいだったことと、入り口から斎場までの途中に少し咲き遅れた八重桜があって、今年は桜を見ることができなかった母のなぐさめになるかなって思ったからです。

母は、葬儀を生前親しくしてもらった友人・知人・家族が集まり、生前の故人との関わりに思いを馳せながら、故人とのお別れを認識する場と考えており、また、特定の宗教を持ってなかったことから、限られた親しい方を招いての、自由葬という形のお別れ会にして欲しいとノートにありました。そして、できればたくさんの花で送ってほしいと。

お通夜、告別式の2日間は、新緑がまぶしいくらいのとてもよい天気でした。闘病中、体調が天候に大きく左右されて、雨や寒い日は調子が悪そうだった母を思い出しましたが、他人のことばかり気遣う母でしたから、自分のことよりもお別れ会にご会葬いただく方々の足元が悪くならないよう、晴れの日にしたのかもしれないと思ったりもしました。

遺族が葬儀の写真なんて撮ってる余裕はなかったですし、事情により父ではなく私が喪主をつとめたこともありばたばたしてたのですが、葬儀社の関係者が撮っていてくれたものがあります。

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祭壇は思いのほかたくさんの花に飾られ、ご供花もいただいたおかげで、母が望んでいたように多くの花で送ることができました。花の種類も菊ではなく、母が好きだったフリージアや百合を中心に好きだった黄色の花や、一般には葬儀ではタブーと言われる薔薇の花も織り交ぜて飾ってもらいました。

それと、今年は贈ることができなかった、ピンクのカーネーションも添えて。。

2日間のお別れ会には、本当にたくさんの方々にご会葬いただきました。母の言葉どおり、葬儀のことはごく限られた方にしかお知らせせず、その方々から他の方にご連絡されることは特に制限はしませんでしたが、ご足労いただくのはごく近しい方々だけで結構ですとお話はしていたのですが。

実際、直接連絡を入れたのは親族を含めて10人程度です。忌引をとる関係上、弟も私も会社には連絡を入れましたが、その時も特に通達など出さないで結構ですと連絡したのですが、2日間で150人くらいの方々が母に会いに来てくれました。

 

小学校、高校の同級生、ご近所の方々とその中でも特に親友として闘病中の母をずっと支えてくださったOさんとUさん。Uさんは闘病中の母が抗がん剤の副作用から自宅で腸閉塞をおこして倒れているのを見つけ、救急車を呼んで病院までずっと付き添っていただいたこともありました。

モスクワ時代の知人で、入院中もよく一緒に散歩に付き合っていただいた30年来の友人のTさん。親子くらい年が離れている母を、「おかあさん、おかあさん」と呼んで親しくお付き合いしてくださり、以前、母と二人で渋谷に韓流映画を見に行ったこともあったという珈琲専門店のオーナーのKさん。ジャズダンスをやっていた頃の知人で、やはりがんで闘病生活を送られているNさん。

また、、私の大学時代によくうちに遊びに来ていた私のテニスサークルの友人も、突然の訃報に電話口で絶句し、忙しいさなかに連絡した翌日のお通夜に駆けつけてくれました。

中には、お通夜が終わったあとに訃報を聞き、明日はこれないからと夜の11時過ぎに駆けつけて御焼香だけされて帰られた方もいらっしゃいました。

その他、ホームヘルパー時代の同僚やかつて中国文化研究会と称して一緒に卓を囲んでいただいた友人の方々など、その交際範囲の広さとこれほどまでに皆さんから慕われていたことに驚かされました。

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そんな方々に最近の母の様子を知ってもらいたくて、斎場受付の横に最近の母の写真や、友人たちと旅行へ行ったときのアルバム、モスクワ時代の写真などを置いてみました。

といっても、あんまりしんみりしたことになっては母も喜ばないと思ったので、どの写真も、とても病気とは思えないような笑顔の写真ばかり並べて。

自由葬だったので、2日間とも、親しくしていただいた友人や知人、親族から弔辞と称して思い出話を語っていただき、葬儀の間はずっと母の好きだったいろんな曲、さだまさしの「風に立つライオン」やサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」、「千の風になって」などを流してもらいました。

告別式の最後には、祭壇に飾ってあったたくさんの花と、多くの人からもらった母への手紙を一緒に棺に納めました。葬儀の間中走り回って、でも黒い服の人ばかりで斎場に入るのをいやがっていた下のこぞーも、ちゃんと献花をしてくれ、おばあちゃんのために棺に花を入れるのを面白がって手伝ってくれました。

そして、最後は親族とごく近しい友人・知人の方々とで火葬に立会いました。このとき、本当に母はこの世を去ってしまったんだという現実感が出てきました。

土曜、日曜と、母の遺体は自宅に安置されていたので、もちろん生きてはいないのですが、体がそこにあるというだけでまだ母がこの世にはいないという現実感がなく、理解と感覚にギャップがありました。

でも、真っ白な遺骨だけになったのを見て、感覚が理解に近づいてきたのを感じました。箸渡しの時には、どこでもうるさく走り回っていた下のこじょーも何かを感じたらしく、じっと静かにして自分でも骨上げをし、他の人が箸渡しをしているのを黙って見ていました。

こじょーが言いました。

「おばあちゃん、火の中で熱かったんでしょ?」

「ううん。もう、おばあちゃん、熱くないんだよ。」

「おばあちゃん、どうして熱くないの?どうなったの?」

こじょーにわかってもらえるような説明が思いつきません。そのとき、あのノートに書いてあったことを思い出しました。自分が死んだ時、どうありたい、どう思ってもらいたいかを書いておくところがあったのですが、そこには、

「自分が死んだら、この歌の詩のように、風になって愛する人たちを見守っていたい。」

と書いてあり、続けて「千の風になって( Do not stand at my grave and weep)」の歌詞が書いてありました。なので、

「おばあちゃん、煙になって、それから風になったんだよ。でも、夜には星にもなるんだ。一番明るい星がおばあちゃん。朝、鳥がさえずっていたら、それもおばあちゃん。いろんなものになって、いぶきのことを見てるんだって。」

それから、こじょーはちゃんとそのことを覚えていて、「おばあちゃんは?」って聞くと「風になった。でもときどき、鳥やお魚にもなるの。夜は星になるしねっ。」って、答えるようになりました。

多くの人たちが、母を思い、慕い、悲しみ、そして最後の別れをしに来てくださいました。

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コメント

Abeeさんの前職ではお世話になりました、時々拝見させていただいていたのですが、お母様の記事で一言お伝えさせていただきたく。

お母様のご逝去、謹んでお悔やみ申し上げます。

素敵な、そして偉大なお母様ですね。

今は思い出されるたびに悲しいかもしれませんが、お母様の思い出を、皆様が笑顔でお話になれる日が早く来ますよう願っております。


突然、失礼いたしました。

投稿: 福岡 | 2008/05/03 22:40

ご逝去、謹んでお悔やみ申し上げます。

まだこの世を去るには早すぎる年齢だけに、大変残念なお知らせでした。
自分の祖父をガンで亡くしたとき、大晦日~新年を集中治療室で過ごし、ただ見守るだけの歯痒さと自分の無力さを呪いたくなるような日々を思い出してしまいました。
しばらく気持ちの整理が付かないとは思いますが、"温かい思い出"を懐かしく語ることのできる日が来ることをお祈りいたします。

投稿: 元・まとりくす | 2008/05/06 17:02

たくさんのお花、喜んでいらっしゃると思います。

人生経験のなさか、うまく言葉にできないのですが
謹んでお悔やみを申し上げます。

投稿: ET | 2008/05/07 22:46

みなさん、

ご弔慰のお言葉とお心遣い、ありがとうございました。

> 福岡さん
母がどれほどの存在だったのか、失ってみてあらためて気づかされました。その母の血を受け継いだうちのこぞーどもの将来を、母はとても楽しみにしていたので、せめて成人するまでは自分も健康で頑張っていかないとと思っています。

> 元まとりくすさん
> まだこの世を去るには早すぎる年齢だけに、大変残念なお知らせでした。

はい、せめて下のこぞーが小学校を卒業するくらいまでは生きていてほしかったです。

下の子にも、できるだけ母のことを覚えていてもらいたかったし、母の口からかつての日本というものを語ってもらいたかった。

もっと色々話を聞いておけばよかったと思う今日この頃です。

> ETさん
ETさんのブログを読むことで、何度となく元気をもらっていました。

見知らぬ土地のこと、日々の中での小さな発見、いろんなことをとても前向きに楽しそうに書いていますよね。

ちょっとつらい時とかめげている時なんか、読んでいるうちに前向きな気持ちになってきて、読み終わる頃には心の中で顔を上げられるくらい明るい気持ちになったりして。

あの時期に元気をくれたETさん、とても感謝しています。ありがとうございました。

投稿: あるじ | 2008/05/17 08:58

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