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2008/04/27

回想録:見えない希望

母が膵臓がんだとわかったのは、私がいまの会社に転職してすぐの2006年1月ことでした。

2~3ヶ月前から背中や腰が痛いと時々もらしていたのですが、当時はホームヘルパーをしており、体力的にもきつい仕事だったので、働きすぎで体が疲れているんじゃないかと私も弟も思っていたのです。

いま思えば、最初に痛いと訴え始めたときに健康診断をすすめていればというのが後悔の始まりかも知れません。

膵臓の尾部に病巣があって既に腹膜播種も広がっており、詳細な検査をした結果、医者(後の主治医)が告げたのは「膵臓がんで現在ステージIVの状態です。」とのことでした。

膵臓がんは早期発見が難しい病気らしく、発見されたときには既にステージIVという状態は珍しくなく、この状態だと外科的処置が難しいため(母の場合は腹膜播種が広がっていたため手術ができないとのことでした)著しく治療成績が良くないということもインターネットを通して調べた結果わかりました。

膵臓がんが難治がんである原因は、膵臓がんには特にこれといった特別な自覚症状がなく、膵臓がんと診断された時には大半がかなり進行し ており、7割から8割の方は外科手術の適応にならない最も進んだ状態のステージIVbでみつかることが多いこと、ま た、たとえ切除可能であっても早期に再発を生じることが多く外科的処置が可能であっても5年生存率が20%前後であることからのようです。

日本膵臓病学会の膵癌登録過去20年間 の膵がんの症例のステージ別治療成績(5年生存率)を調べたときには、ステージIVa: 11%、ステージIVb:3%となっていました。そして、この5年生存率の低さを裏付けるように、半年から1年もたない患者さんも多いということもわかりました。

ここまで調べたところで全身の力が抜けていくのを感じたのを今でも覚えています。どうして母がこんなことになったのか、なぜこんなに希望がない状態なのか、考えても考えても納得がいかない。これまでの人生で、家族にも尽くしてきて父親が省みない家庭を支えてきただけでなく、人生の後半になって辛い思いをして、それでも一人で生きていくためにホームヘルパーの資格を取って自分で生活する術も身につけて頑張ってきたのに、こんな仕打ちがあるのかと、どこにもぶつけようがない憤りがいつまでも消えませんでした。

と、同時に、膵臓がんの末期であることを知った母が、どんな思いでいるのかを想像したらいたたまれなくて、もしこれから治療しながら生きることに絶望していたら、どう励ましていいのかをひたすら考えていました。

私が大学の頃、母の姉がやはり膵臓がんでこの世を去りました。非常に辛い思いをしながら治療をし、それでも最後の方では痛みに耐えかねて苦しんでこの世を去った叔母のことが思い出されました。母もその時のことを忘れているはずがありません。仲の良い姉妹でしたから、ずっと叔母のことを気にかけてましたし、よくお見舞いにも行って良い治療法がないか調べたりもしていましたから、膵臓がんの専門的知識はなくとも、自分が置かれた状況については、少なくとも感覚的には理解していたと思います。

私が小学校1年生の頃、母と弟、私の3人で当時のソ連の首都モスクワに向けて旅立つ羽田空港の出発ロビーで母に言った言葉が浮かび、今こそその約束を守らなくてはならない時だと思ったのですが、いったいどうしたらよいのか、真っ暗な先の見えない道を探して途方に暮れていました。

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