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2008/04/26

慟哭のとき

母が他界しました。

4月19日未明、ゆっくりと息を引き取りました。
日が経つのは早いもので、もう初七日も過ぎました。

葬儀とか役所での手続き、ご会葬いただいた方々へのお礼やご香料をいただいた方々への返礼品のリスト化など色々とやる事があり、それに加えてちょうど会社が会計年度末だったこともあって、忌引で休みをいただいてはいましたが時々出社して事務処理をしたりしているうちに、もう母が亡くなって一週間が過ぎました。

何かやることがあって忙しくしていると色んなこと考えずにすみます。その合間にときどき母に向かって焼香し、手を合わせて心の中で語りかけたりもできます。

でも、一人にになって考える時間があると、ね。
たとえば、夜中に一人で車を運転してたりすると、どうしても悲しみと後悔の気持ちを抑えることができないです。時間は過ぎても、心の中で人生の歩みが止まってしまったように感じた一週間でした。

いま、人生ではじめて、慟哭のときをむかえているのだと感じています。

そして、後悔という言葉の本当の意味を、思い知ることになりました。

泣いても叫んでも、悲しんでも嘆いても、もう母は戻ってきません。

応えられなかった母からの期待、果たさずにいた母との数々の約束が、浮かんでは消えていきます。

きっと、この後悔はわたしが生きている限り、ずっと消えないのだと思います。

でも、いつまでも悲しんでいるわけにはいかないですからね。

もう少し、時間はかかるかも知れないけど、母がわたしや家族にくれた多くのものと、ずっと消えることのない後悔と、この2年3ヶ月の間にわたしに見せてくれた母の生き様を、ぜんぶ心にしまって、再びこの先の自分の人生を歩み始めないと。

そう考えながら、この慟哭のときをすごしています。

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